ピュー美(ピンクのピです)(1966.1 28生)
子宮頸がん(2011年4月に告知、翌月手術 広汎子宮全摘) 

家族構成 
夫 47才
長女 7才(小1)

子宮頸がんの検査は、長い長い不妊治療中から受けていました。
今からもう、16年くらい前のことです。もちろん産前産後も、ずっと異常無しの状態でした。子宮内膜症の持病もあり、20代の頃から、腹腔鏡手術も受けましたが、
再発続きで、投薬治療も続けていました。
ずっとクラス2だった検査結果が、IIIa軽度異型性になったのが、4年ほど前でした。
しかし、その後の再検査では再びクラス2に戻り、3年近く、クラス2とIIIaを行ったり来たりしていました。
途中、HPV検査も行い、17型に感染していることがわかりました。
先生は、予備軍であることは違いないので、注意深く診ていきましょうと、3ヶ月おきに細胞診をしていましたが、何度目かの検査で、IIIb高度異型性が出てしまい、急遽、組織診を受けました。組織診は、その先生の恩師でもあり、細胞や組織、癌にも詳しい先生を紹介され、そのクリニックで受けました。
高度異型性が出た時点で、円錐切除は避けられないとわかっていましたし、数日の入院が必要ということも言われていました。
私の中では、最悪0期(上皮内癌)の覚悟はしないといけないな・・・・。
入院中は娘の世話はどうしよう、母に来てもらうしかないな、などあれこれ考え、娘にも「ママ、癌の卵があるみたいやから、手術せんとあかんねん。その時は、ばあばに来てもらうね。」と予告していました。もちろん、癌という病気の説明も私なりにしていました。
2週間後の結果を聞きに行く数日前、病院から電話があり、「結果が早く届いたので、なるべく早めに来てください」と・・・。
嫌な予感はしましたが、私の中では「やっぱり0期の癌だったか・・・。」という思いが、ますます大きくなりました。

そして当日、先生から「先日の組織診の結果ですが、細胞診より強い結果が出ました。癌です。」その時も私はまだ「ああ、やっぱりですか。では円錐切除ですね。」と冷静に答えていました。「いいえ、子宮も卵巣も全部摘出しないといけません。」一瞬耳を疑いました。「えっ、だって0期なんでしょ?」その問いに先生は、「クラスV、浸潤癌の疑いです。初期ですが進行が始まっていると思われる癌です。」頭の中は真っ白になりました。
なんで? なんで? 前癌病変だったのに、なんで進行癌やの?涙が出て、パニックになりました。その後先生は、1b1期の扁平上皮癌であると思われることを告げ、医学書のような物で説明してくれたり、今なら95パーセント転移は無い、ご家族のためにも手術を受けてください、など優しく説明してくださり、大学病院に紹介状を書いてくださいました。

とりあえず、少し落ち着いて病院を出ることはできましたが、家族になんて言おう、娘になんて言おう、転移していたらどうしよう、手術痛いんだろうなぁ、怖いなぁ・・・・。
折りしも、その日は午後から娘の入学後、初めての参観日の日でした。給食参観だったのですが、まだまだ慣れない学校で、頑張って給食を食べている娘の姿を見ていると、涙がこぼれそうになりましたが、必死でこらえました。
正直、嬉しさよりも、さっきの癌告知のダメージが大きくて、立っているのも辛かったのです。娘に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
季節は春、マンションの前の公園は桜の名所でもあり、お花見の人達で連日賑わっていました。みんな楽しそう。なんで私だけ、こんな辛い春になるの!? 今までの人生の中で一番辛い春でした。本来心地よいはずの春風や桜ですら、不快に腹立たしく感じました。

夫にはメールで知らせておいたので、あまり混乱はしていないようでした。手術すれば大丈夫なんでしょ? という感じでした。私の両親には、電話で説明しました。さすがにショックを受けていましたが、留守中は、母が泊まりこんでくれることになりました。
娘も結果を気にしていたようで、学校から帰ると「病院どうやった?」と尋ねました。「それがね、卵じゃない癌がいるんやって。赤ちゃんが入るお部屋や、卵ができるお部屋も、全部取らないとダメなんやって。
ママが入院してる間は、ばあばに来てもらうから、ご飯も心配要らんよ。学校にも行けるよ。宿題もちゃんとやらなあかんで。2週間したら帰ってくるからね。」と言いました。娘は「手術したら死なへんの?」と不安そうに尋ねました。
「当たり前やん! 死なへん!」「良かった〜!」
それから、CT MRI、腎盂造影などの術前検査の日々で、アッという間に、手術前日になりました。病院には夫と母が同行してくれましたが、しばらく娘と離れるのが辛くて、玄関で泣いてしまいました。
娘も泣きました。一緒に留守番してくれていた父によれば、その後、一時間近く泣いていたそうです。私も病院に着くまで、ずっと泣いていました。

結局手術は大学病院が2ヶ月待ちになるということで、2011年5月に、提携している総合病院で受けることになりましたが、執刀は大学病院から、腫瘍専門の先生も来てくださり、総合病院の先生と一緒にやってくださいました。
お腹を開けてみると、持病の子宮内膜症が重症だったようで、癒着もひどく、そのせいで、かなり難しい手術になったと後で聞かされました。出血量も2000になりましたが、血液が濃かった私は、なんとか輸血せずに乗り切ることができました。

心配していた病理結果も、卵巣、リンパから癌は発見されず、子宮頸部は、広がり13ミリ、深さ8ミリの部分が癌化していたそうです。当初の診断と同じ1b1期の扁平上皮癌でした。なぜ細胞診で癌が出なかったかという疑問については、細胞診は、癌の細胞をこすり取って調べる検査で、80〜90%は正確と言われているけれど、細胞同士の結合が強かったら取りにくい場合もあると言われました。

入院中、娘は両親に連れられて2回お見舞いに来てくれました。
「癌やっつけた?」「やっつけたで! 捨ててやったわ!」私についている尿の管を、「これ何?」と、不思議そうに見たり、病院の食事を、「いいなぁ、美味しそう。」と羨ましそうに見ていたり、その姿に私の心も、やっと緩んできました。
内膜症の癒着のせいもあり、全く尿意を感じないという後遺症は残りましたが、幸い経過も順調で、12日後に退院することができました。

手術までは、何度も泣きました。急に不安が襲ってきたりして、家事もろくにできない日もありました。娘に「ママ怖いねん・・・」と泣き言を言うと、「手術すれば治るんでしょ! 頑張って治して早く帰ってきて!」と励まされた時もありました。寂しいのを我慢して頑張ってくれた娘には、本当に感謝しています。もちろん、前面協力してくれた夫や両親にも、感謝しています。
生意気盛りで、毎日のように怒ったりケンカばかりしていますが、癌という病気を経験して、子供と日々向き合えることの喜び、有り難さを感じています。娘は当時6才でしたが、特に女の子ということもあり、子宮癌の怖さというもの、ワクチン接種や検診が大切であるということを知ってもらうために、敢えて話しました。今後もその大切さについては、話していきたいと思っています。

間もなく手術から一年になります。これからも術後の検査は続きますが、穏やかに過ぎる毎日に感謝しながら生活しています。