名前:BELLE(40代後半・女性)
病名:子宮頸がんⅣb期
治療:初発治療(同時化学放射線療法)、再発(TC療法)

<はじめに>
3年前の2009年10月初旬、57日間の入院生活を経て退院しました。
入院中はずっと医師をはじめとする医療スタッフ達に見守られていましたが、今度は自分自身が日常を管理する生活になります。些細な変化を見落としてはならない、しっかりしなくてはというプレッシャーと病院から離れることで体調を崩したらどうしようという一抹の不安を感じつつも、「ようやく自由が戻った。」という安堵感がありました。
初めてのがん告知(子宮頸がんⅣb期)から入院・治療、入院中に発生した3度の大出血アクシデントや副作用による苦痛など、何度も山を乗り越え復活しました。周囲には私のことを“奇跡の人”という人もいますが、私は周囲に支えられて生還できましたし、生かされたことを実感しています。
一度失いかけた生命、這い上がれたのは“もうけもん”ですが、退院するにあたって考えたことがあります。「さあ、これからどう生きようか?」ということです。がんになった以上、再発リスクは常にあり、再発することで長期入院を余儀なくされることもありますし、これまでの生活ができなくなること、そして二度と戻って来られないかもしれません。それが次の外来診察でそうなるかもしれないし、もう少し早い時期に突然体調が変化するかもしれません。「その時、自分は何と何をしていたなら満足できるか。」「悔いがないようにしたい。」という思いが頭をよぎりました。そして、これまで経験したことを伝えて活用してもらう方法はないかと考えました。実はその2年後に骨盤内再発し、抗がん剤治療(TC療法・6クール)を2012年1月まで受けました。現在、多少の不快症状と身体の不自由さはありますが、元気に生活し仕事もしています。
看護師としてこれまで多くのがん患者さんと関わらせていただきましたが、自分ががんを体験したことで改めてエビデンスを持って確認できたこと、新たに発見したこと、精神面などでも感じたことが山ほどあります。私たち医療者は、よく教育課程で「相手の側に立って」「相手の身になって」という言葉をよく使いますが、実際に相手の身になるために毎回病気になるわけにはいきません。でも、プロですから、客観的視点から物事を判断し、予測を持って患者に接することが医療現場では求められます。私もがん医療については、これまで人に負けないぐらい興味を持ち学習してきましたし、疾患に伴う自覚症状や治療の副作用、精神的な苦痛など患者さんの訴えに耳を傾けてきました。しかしながら、患者さんの苦痛を十分に緩和させてあげられなかったことで、自身の力不足を感じたことを何度も体験しています。
今回、医療者として患者体験したことを文章化することで、がんと闘う同志、そして同じ職業の仲間・看護師を目指す後輩達の参考になれば嬉しく思います。
※始めに伝えておきますが、私は看護師として働き始めて26年になります。これまで婦人科領域で働いた経験はなく、発病当時は婦人科疾患について看護学生の時に学習した程度の知識しか保有していませんでした。初回治療を終えて退院してから、疾患や治療のことを懸命に学びました。

<がん発覚まで>
2009年4月頃から両側腹部痛が時折出現し、市販の鎮痛剤を内服する回数が段々と増えていましたが、デスクワークによる姿勢の悪さが原因だろうと放置していました。数年前から生理の経血量が多く、2008年夏頃からは経血量の多さに異常を感じるようになり、職員検診でも極度の貧血と指摘を受けましたが、基礎体力に妙な自信がありましたので「年齢的に子宮筋腫でもあるのだろう。」と思い込み、経血量の多さに対しても「自分で対処できる。」と言い聞かせるようにしていました。生理が長引くような、不正出血と思われる症状もありましたが、出血が落ち着いている時期もありましたので、大丈夫だろうと思っていました。今思えば、病気が発覚し職場を離脱することに対して不安と恐怖心を抱いていたように思います。
私の当時の仕事内容についてご紹介します。発病する4年程前から病棟業務を離れ、看護管理部門で主としてデスクワーク、看護職員のキャリア開発(研修企画・運営)、外部へ向けた様々な情報発信や調整をやっておりました。やりがいのある仕事を与えられ、直属の上司(2名います)に恵まれ日々頑張ってきましたが、たった一つだけ悩みがあり(一部の職員との人間関係)、それがストレスフルになっていました。負けず嫌い・完璧さを求める性格から、業務をスムースに運びたい、自分が職場を離脱するなんて到底考えられませんでした。
2009年7月末、ライフワークのドルフィンスイミングで年に数回訪れている島に出かけました。その頃には両側腹部痛(特に左側)が鎮痛剤内服だけでは軽減せず、脇腹から腰がねじれる様な、立っていられないほどの痛み、冷汗が出現し痛みの我慢比べの様な状態になることも多々ありました。痛みが少し落ちついたのを見計らっての島行きでした。さすがに海へ入る余裕はなく、なじみの仲間達と親交を温めて過ごしました。島での過ごし方には、“島時間”というものがあり、イルカと泳がなければ、のんびり集落を散策、客室で昼寝、宿の方々とおしゃべりするのが私の普段の過ごし方です。明け方島へ到着してから宿の客室で横になり休んでいましたが、午後になって突然の上腹部(胃のあたり)疝痛(さし込むような痛み)が出現、持参していた鎮痛剤で少し楽になりましたが、上腹部の圧痛(手でみぞおちを押した時の痛み)が残りました。「せっかくだから胃薬を貰おうかな。」という気軽な気持ちで島の診療所を受診しました。診察・血液検査の結果、軽い炎症所見を認め、胃腸炎の診断で内服薬が処方されました。夜は宿で楽しく過ごし、翌日の昼過ぎに客船へ乗船するまでは痛みもなく経過しましたが、乗船した途端に上腹部の疝痛が再燃、目的地の客船ターミナルまでの約8時間はみぞおちを手で圧迫して息を殺し苦痛に耐えて過ごしました。客船ターミナルから自宅までは電車で1時間半程かかります。一人で自宅へ無事に帰る自信がなかったので、救急車を要請し近隣の救急病院へ運んでいただきました。(救急車の要請については、客船ターミナルで受付の担当者へ事情を伝え救急車の要請をお願いしましたが、受付業務が週末で込み合っており「順番があるのでちょっと待ってください。」という返答だったので、自分でダイヤルをしました。初めての救急車、救急隊からはバイタルサイン測定しながら、「何故、体調が悪いのに島なんかへいったのですか?」と矢継ぎ早に質問を受けましたが、苦痛の中でそのようなことを聞かれても何と返答すればよいのやら・・・。過去のことを責められても、とりあえず今の状態を把握し何とかして欲しいと思い痛みと闘っていました。
都内の救急病院へ搬送され、到着と同時に胃穿孔(胃に穴が開く)の疑いで直ちにCT撮影、その結果「上腹部痛の原因となる所見は画像上ありませんが、左の腎臓に石があるかもしれないので、自宅近くの病院へ受診することをお勧めします。」と医師のコメント。上腹部痛について、手で押して離した際に鈍痛(鈍い痛み)があることを伝えると、「それは、表面上の痛みではなく、深部(奥の方)に異常があるということ、炎症所見としてはかなり重症です。」と説明がありました。しばらくして痛みも落ち着いたので、なんとか自宅へ戻り土日の休日を自宅で過ごすことになりました。ところが、帰宅した途端、38度台の発熱が出現。私には看護師になりたての頃腎臓センターに配属されていた理由から、腎臓が悪くなると生命に関わるという認識が強くありました。今回腎臓疾患の可能性を指摘されたことは、大きな不安とショックでした。そして、突然の発熱、何が起こったのだろうという気持ちで不安な週末を過ごしました。
休み明けの月曜日、既にカレンダーは8月に入っていました。出勤後直ぐに上司へ週末の経緯を報告し、上司に診察の手続きをして貰い、急遽勤務先の泌尿器科を受診することになりました。「仕方がない、この際だから婦人科も診て貰おうかな。」と観念したように、婦人科受診の手続きも追加で行いました。まず、泌尿器科診察です。超音波のエコープローベを下腹部にあてながら、左側の水腎症を担当医から指摘されました。水腎症の原因として、何らかの原因で尿管の先端が圧迫されたために腎臓から尿が流れにくくなった可能性があるという説明で、急遽造影CT検査の予約が2日後に入りました。側腹部痛の原因は水腎症だったようです(後に原因がそれだけではないことが発覚しましたが・・・)。鎮痛剤(ロキソニン錠)を多めに処方していただき、採血検査を受けたその足で婦人科の診察を受けました。

To be continued…