私は2度の子宮ガンを経験しました。

1度目は30歳の時。その頃の私は芸能活動も休止していて、仕事から恋愛からすべてにおいて上手くいっていなかった。将来の展望もなく、不安だらけでストレスまみれの生活をおくっていたのです。
若いころは勢いで突っ走ってこれたけど、次第に頭打ち。
経験値も低ければ、若くもない。仕事も減り、自分の存在を持て余していました。
恋愛はしているけれど、その相手と結婚にまで結びつくとも思えず、心にぽっかり空いた穴は埋められない。結婚したいと気持ちは焦るけど、そのギラギラした感じ、一番男の人に敬遠される・・・。
どこにいても何をしていても、本当の自分を全く発揮できないまま、時間だけが過ぎていました。

2004年の冬。そんな悶々とした日々の中で、体調の異変を感じていました。
生理は毎月正しくやってくるけど、その際の生理痛が酷い。何度も鎮痛剤を飲まないと耐えられない痛み。経血の量も心なしか増えたような気がするし、何度も、ナプキンにレバー状の赤黒い血液がべっとり付くことが増え・・・。生理が終わっても、黄色がかった茶色いような緑のような明らかにおかしい色をしたおりものが続き、それは直に匂いを嗅がなくてもツンと鼻をつく刺激臭を発しています。
お腹が痛いと感じる時間も長くなりました。ず~んという腰まで支配するような鈍痛の時もあれば、 立ち上がるなどの動作の際に、き~んと下腹部に激しく差し込む痛みの時もありました。
セックスをすると、必ずシーツにはっきりと出血の跡が見られるようになって、性交時も痛みが強くなり、だんだんとセックスも恐怖に変わっていきました。

12月。体調の不調も、ストレスも(主に恋愛がボロボロでした)ピークに達した時、いよいよ友達に勧められた人気のレディースクリニックの門を叩きました。
内診の際に膣に器具を入れるのもかなりの苦痛でした。エコーなどで詳しく診てくれた先生の口から「原さん、ちょっと子宮の入り口に出来物があるのね。ちょっと大きいんだけど・・・
 いずれにしてもこの出来物を取らないと症状は改善しないと思う」
という答えが返ってきました。

その後、そのクリニックでは手術や入院は出来ないという事で、時々お世話になっていた大学病院の婦人科へ行きました。更に詳しく腫瘍マーカーと、CTスキャン、MRIなどの精密検査を行いました。結果、子宮頸部に腫瘍がはっきりと確認され、医師からは取ってみないとわからないけど、最悪ガンの可能性もあると初めて聞かされました。(腫瘍マーカーの数値は正常値でした)
それでもまだ30歳だった私には「ガン」と自分がどうしても結びつかず、いや、絶対に良性のポリープ かなんかだろうと高をくくっていました。今思えば無知ほど怖いものはなかったのです。

2005年2月

年を越し、2月19日に入院、21日に手術が決定しました。
円錐切除という頸部の一部をくり抜く、今では日帰りでも行える病院もあるほどの
そう難しくない手術でした。
先生からは、下半身麻酔と全身麻酔とどちらがいいか聞いてもらいましたが、迷わず全身麻酔を選択。
入院してからは、麻酔科の先生との打ち合わせ(歯の状態などもチェック)、手術の為に腸を空っぽにする処置をしたり、改めて主治医の先生とのカンファレンスなど、1日があっという間でした。
21日。私の手術は午後1時開始予定。午前中は浣腸をして更に腸の中を空にしたり、少しぽーっとする薬を飲んだりして過ごし、先生に点滴の針を入れてもらい、そして最後に剃毛を看護師さんにしてもらい、ストレッチャーに乗って中央手術室へ向かいました。
手術台に乗せられたらすぐに手術着の主治医の先生が現れて、「原さ~ん、これから麻酔はいるからね~」と声をかけられたのが最後、すぐに意識がなくなりました。

1時間半後~

肩を激しく揺さぶられて、大きな声で何度も自分の名前を呼ばれて目が覚めました。
手術は終わったようです。ストレッチャーで自分の病室に帰っている所のようでした。 とにかく、物凄い勢いで起こされたので、不快で不快で仕方なかったのを覚えています。
病室に戻ると、今度は激しく腹痛を訴え(本当はまだ完全に麻酔からも醒めていないのですが)左右に 暴れまわるので、看護師さんがすぐに点滴に安定剤のようなものを入れてくれると、私は夜まで こんこんと眠り続けたそうです。
次に目が覚めたら外は真っ暗で、母親の顔が見えました。
「手術は無事終わったよ。大丈夫だって。」と言ってくれました。

それから次の日まではまだ少し薬の影響でぽーっとしていたけど、お見舞いに来てくれる友達やマネージャーとも、ベッドの背を起こして、お喋りできるまでに回復していました。
膣からの出血も止まり、経過は順調。
手術から3日目。あっという間に退院の日を迎えました。
本当にあっけないとはこのことです。手術までの不安を考えたら、拍子抜けもいいとこ。
体調も悪くないし、スタスタ歩けるし。一体何だったの?という感じでした。

3月1日が退院後初めての外来。手術で摘出した組織を病理で調べた結果を聞きにいく日でした。
それまでは、母も家に来てくれているし、三度の飯の心配もなく、すっかり甘えきって安心しきっていたので、私はもう、全てが解決してしまったくらいの感覚でいました。

3月1日の夕方、一番最後に私の名前が呼ばれました。し~んと静まり返った外来が嫌な予感を掻き立てるようでした。
主治医の目の前の丸椅子に座り、ふ~っとひとつ呼吸をすると、 「この間の腫瘍ね、あれ、やっぱりガンだったよ。だから僕は子宮を全部摘出した方がいいと思う」という声がストレートに耳に入ってきました。
え????その言葉の意味を理解しようと、頭の中が突然フル稼働・・・
やっと絞り出しながら、「え・・・ということは先生、私もう子供産めないんですか?」という一言を 発するのがやっとでした。
はっきりと頷く主治医の先生の顔はいつに増して厳しいものでした。
全身の血流が激しくなり、ザーザーと耳の後ろでその荒い流れが聞こえるほどでした。
隣にいる母がぐっと私の手を握ってきました。「しっかりするのよ!」と私を支える思いが伝わってきたけれど、私は完全にパニック状態でした。「なに、これ・・・?」一瞬にして奈落の底に突き落とされる思いでした。ポロポロと涙が止まらなくなり、嗚咽をこらえるのがやっとでした。
勿論、その場では子宮の全摘出を承諾できるわけもなく、1週間後に答えを出す約束をして診察室を出ました。外来を後にして長い廊下に出た瞬間、うわ~~っと慟哭と共に崩れ落ちてしまいました。
どうしてこんなことになってしまったのか?なんで私なのか?
その頃の私には一切を受け入れる経験も器もなかったのです。

ガンを宣告されてからの1週間はジェットコースターのような感情で過ごしました。
抜け殻のように心を閉ざしてみたり、急に子宮を失う未来を受け入れてみたりまた手放してみたり・・・
だけど1秒1秒を過ごすごとに、「手術を受けてみよう」という気持ちが固まってきたのです。
これも自分の運命なのかな?と。子宮を失っても私には仕事がある。その仕事を全身全霊を傾けてやれと神様が言っているのではないか?と・・・。もうこれで仕事か結婚して出産か?の選択に惑わされることもなくなるのだと、ほんの少しホッとしている自分もいました。

1週間後、再び主治医の先生の前にいた私は手術を受ける同意書にサインをし、入院の手続きを踏みました。手術は4月に入ってすぐ。1か月後に決まりました。

「とにかく今の段階なら単純子宮全摘で済むから。追加治療はいらないからね。」という先生の言葉。
その当時は「?」って感じだったけど、今ならわかります。この段階、状況がいかに大切で重要なのかが・・・。
この時の診断は、扁平上皮癌ステージ1a期。初期ですが、やはり子宮を摘出するしか再発転移を100%防ぐ方法はなかったでしょう。

東京はすっかり春の陽気になり、桜の開花宣言が発表されると、街中はあちこちにピンクの花びらが咲き乱れます。そんな春真っ盛りの中、私は再手術に向けて検査をしたり、自己血輸血の為の採血をしたり(400mlを2回)何度も病院へ通い続けました。

その後も恋愛は続いていましたが、関係は良くありませんでした。支えてくれるだろうと期待していた相手でしたが、自分の事で一生懸命のようでした。何度も足踏みさせられる自分と、グングン前に進んでいく相手を比べては、落ち込む毎日。しかも相手には私だけではなく親しくしている女性がいたようでした。私よりも健康で美しくて活躍している女性に惹かれる気持ちも理解できましたが、本音は卑屈になるばかり・・・。女性としてもタレントとしても最も自分が惨めであった時期でした。

どうして?どうして私ばかりにこんな不幸が起こるの?
何がいけないっていうの?どんな意味があるっていうの?
小さな頃は、自分もいつか愛する人と一緒になって、可愛い赤ちゃんを手に抱いて、幸せの絶頂を 迎えるんだって信じて疑わなかった・・・。どこでどうこの人生が狂っていったんだろう? どうしてお父さんやお母さんをも巻き込んでここまで苦しめないといけないんだろう?

一番支えて欲しいと願う相手すら、私を見ていない。
「絶対に俺の邪魔をするな」といったようなオーラを静かに確実に発しているだけでした。
まだはっきりと、「嫌いになったから別れて欲しい」と言われるほうがマシだったかもしれません。
でも、愛されてないってわかっていても、縋る相手が欲しかったのも本音です。
一人でいるなんて耐えられない状況でした。

鬱々とした毎日がただ過ぎていくだけでした。
そんな時、アロマの先生である小林ケイさんからこんな事を言われました。
「原さん。女性が女性として傷ついてしまうと、子宮や卵巣、乳房など女性特有の臓器がその辛い 思いをキャッチするんですよ・・・。体と心は繋がっているんです」 完全に腑に落ちました。なるほど・・・自分がどれほどに傷つき、自らも傷つけ、その行き場のない思いを子宮という女性を象徴する臓器が、ただただ黙って受け止めてくれていたのかと。

でも、この頃の私はまだ、物言わぬ子宮へ真剣に思いを馳せる事ができませんでした。
自分の事が一番大事で、他の事なんか目にすることが出来ない、本当に心に余裕のない状態でしたし、 辛いのは苦しいのは自分だけ。それは様々な環境のせいだと、問題の本質に向き合っていませんでした。
本当に本当に未熟だったのです。自分勝手で幼稚だったのです。

子宮摘出手術を決意してから1か月の間、私の心の中は揺れに揺れていました。
そして、現実でも、私の心を揺さぶる様々な出来事が起こりました。
恋愛の相手に、やはり他に親しくしている相手がいることが決定的になったり、
仕事の事でも納得できない事態が起こったり・・・
益々自分ばかり惨めじゃないか!と情けなく、いたたまれない気持ちに襲われていました。

「プチッ」
私の中で何かが切れました。

ああ、もうこんな状況で自分だけが痛い思いをして子宮を取るなんて馬鹿馬鹿しい!
先生だって悪い所は全部取ったって言ってじゃないか。
なのに、何故女性にとって大切な子宮を取らないといけないの?
確かに取ってしまえば、予防は完璧かもしれない。でも、私にはまだ出産できるチャンスが 残されている。それをこんな辛い悔しい状況で手放してしまうのはあまりに無残すぎる。
今の私にこの状況を乗り越える力も運もないではないか。
人生で一番どん底の時期に、更にどん底に落ちるなんて嫌!
これ以上負け犬になるのは嫌だ!!!

ああ~、言ってしまいました!
これが、1回目のガンの時に私が子宮摘出を拒んだ時の本音です・・・。
今思えば、馬鹿だなぁ~と。
タイムマシンがあれば、この時の自分にビシっと平手でもくらわせて、がっつり説教するのですが、 いずれにしても、当時の追い込まれた私が出した答えが「手術はしない」だったのです。
これも自分の人生です。確かにこの時の私に摘出手術を心身共に乗り越えるのは無理だったでしょう。
それほどに被害者意識の塊でしたし、卑屈になって自分だけが不幸っていうのをべったりと顔面に 貼り付けて生きていましたから。

きっと神様が、アホな30歳の女性の人生に大きな「気づき」を与える為に、手術は後回しに なるよう仕向けられたのかもしれません。

「子宮取るのは後!その前にたっぷりと人生勉強をせよ!」

私の耳には届いていない神様からの指令は、これから長い年月をかけて静かに実行されていくことになるのです・・・。30歳から35歳までの私の人生は、自分の一生を眺めても最も辛い試練の5年間で あったのです。(2012年現在)

To be continued・・・